平田ぱんだのロックンロールの話
第48回:ザ・ボヘミアンズ『I WAS JAPANESE KINKS』
最終回!
やってられっか馬鹿野郎! やめだやめだー! 書き始めて3年半、山あり谷あり色々あった。その全てはこの最終回のためにあった! さあ終わりを始めよう!
今回紹介する、ロックンロール・ファーストアルバムは、こいつだ!!!
ザ・ボヘミアンズ『I WAS JAPANESE KINKS』!
完璧な締め。これっきゃないっしょ。2010年5月12日リリースの最後の、最後のロックンロール・ファーストアルバム、ラスト・ロックンロール・ファーストアルバム『I WAS JAPANESE KINKS』!
これは日本のクソバンドTHE BOHEMIANSという腐れが出したやつだから本来こんな私的レジェンド大集合連載ラインナップには絶対並ばないゴミなんですけど、仕方がありません。なぜならば私はこのグループのメンバーだからです。しかもボーカルです。最悪です。
ボーカルの恥ずかしさはボーカルにしかわかりません。しかもロックバンドとかいうゴミ中のゴミの真ん中に突っ立って、下手な歌を録音されて売られるのです。今後、絶対に私本人の前でボヘミアンズの音源流さないで欲しいです。たまに率先して流してくることとかありますけど、本当にやめてほしいです。たまに積極的に自分の歌ってる音源を流してくる恥知らずのロック歌手もいらっしゃいますけど、正直神経を疑います。うまかろうが下手かろうが変わりありません。ロックバンドのボーカルは恥ずかしいものなのです。ゴミなのです。だからロックのライブはいいのです。あの時だけだからです。普段かけない恥をすすんでかきにいくのです。快感です。この恥ずかしい私を、見て! といった塩梅です。ちんちんぶらぶらです。
だから本来録音したり録画したりしてはいけないのです、ロックバンドのライブは。それを売ったりするなんて言語道断です。CDなんて廃れて当然です。昔の音楽家は録音物に反対だった人が多くいたそうです。なぜならば家で自分の演奏が聴けるようになったら、誰も店まで聴きに来なくなって商売あがったりだ!って主張だそうです。その通りだと思います! サブスクの浸透で現代じゃ音源が金にならなくなりはじめていて、ライブの生演奏パフォーマンスで稼いでなんぼという、録音物が登場する以前の健全な音楽状況に戻りつつあって素晴らしいことだと思います。なぜならば先ほどから申しています通り、ロックバンドの演奏なんて録音してはいけないからです。
しかしながら私は私の歌声が録音されたこのファーストアルバムの紹介を本人特権でここでしなくてはならないのです。それは聴いて欲しいからではありません。少しでも金になればという思いでしかないのです。ファーストアルバムなんて所詮過去です。ロックンロールはずっと昔から今なのです。今そのものの感動のことなのです。だから録音物はロックンロールには敵いません。敵っているとしたらそれは聴いているあなた個人の心の今がロールしているからなのです。録音物はいつまで経っても変わらずそのままなのでそれに価値をつけるのはあなたの今の心だけなのです。
ということでロックンロール・ファーストアルバムなんて全部クソです。特にボヘミアンズのファーストアルバムは出来が悪いです。わりとボヘミアンズのアルバムの中でも代表曲的な所謂いい曲が多く収録されている方のアルバムではありますが、それと出来がいいか悪いかは別の次元の話です。これは個人的な感情を抜きで、俯瞰で眺め聴いた時に普通に思います。ぼくがリスナーだったら多分このアルバムに振り向かないと思います。個人的な感情ありだともっとクソです。何しろ歌がひどい。いいわけをするならばその頃はまだちょっとだけパンクでありたいという願いがあったので、比較的ポップな楽曲群を必要以上にヘタクソに歌い、崩しまくっているというところもあるにはあるのですが、それにしたってひどい。というかすべってる。声も細いし。録音物の歌声としてはいいとこないっすね。歌詞もテキトーにも程があるし。これも日本語歌詞にはっきりとした意味を持たすと野暮ったいし、何より恥ずかしいという謎のこじれた考えがあってこうなっているところがあるプラスめんどくさかったんでしょう、単純にきっと。
自分の部分だけに限って話してもそういった感じなので、あまりにもオススメではないのですが、紹介しなくてはなりません。なぜならば出してしまったからです。出すために作ったアルバムだからです。とにかくなんでもいいから、早くロックンロール・ファーストアルバムが出したかったのです。焦っていたのです。当時の僕なんか27歳ですからね。「ジムモリソンもうすぐ死ぬじゃん!」って焦りがたしかにありました。
当時の世相はまだまだ音源主流、CDがお店に並んでないバンドはスタートラインにすら立てなかった。そんな時代でした。どうやったらCDがお店に並ぶのか、全くわかりませんでした。ある日突然レコード会社の偉い人がやってきて、なんてストーリーしか思い浮かびませんでした。だから今回はこのファーストアルバムがどういった経緯で作られてどういった経緯でお店に並んだか、を主に書いていこうと思います。どうせここを読んでいらっしゃる99%はボヘミアンズに関心のある方でしょうし、あとCDが効力を失いつつあるといったってまだまだCDが店頭に並ぶことの威力への憧れは途絶えちゃいないと思うんですよね。そんなまだ見ぬ若人達の道標のひとつにでもなればという想いも一応のせておきましょうかね。
僕も当時は色んなロックの人の自伝や記録文書を読んでは、どうやったらロックで世に出れるのか、の部分を特に重点的に自分のその時の今と重ねて読んでましたもんね。でも大概は下積みのとこは軽くすましてサクセスしたあとのとこにページの大半を割くのが普通ですし、そうあるべきだと思いますけど。でも僕の場合は長々と書きますよ。そもそもたいしたサクセスもしてないですからね。そして何より書きたいからです。ファーストアルバムが出るまでのあの悶々とした日々のおもひでを。上京してからファーストアルバムが出るまでのあの3年間が一番濃く思い出せますもん。そのあとのメジャーデビュー後の2011年から2013年の間のロックンロール・アイドル時代の3年も濃いですが。2014年以降の現在も続くデリシャス期はほぼほぼずっと上がりも下がりもなく安定した活動を続けられているので、これといって凄く書きたいこともないっていうか、そんな変わったおもひでがないっていうか、どれがどの年のどれかとかが最早わからないに近いって感じです。まあこの体制になってもうすぐ6年経ちますからそりゃそうだろって話でもありますが。
とにかく2007年から2010年までのファーストアルバム前史は今でもありありと思い出せる、気がする。とりあえずめんどくなるまで書いてみますか。心の向くままに。さあ読んでくさい。
まずは2007年のバカヤロー!
1月から3月はまだギリギリ地元ガタヤマで大学生してるな。1月には地元山形のサンディニスタでやってた東京とか県外からもゲストバンドを呼ぶランニンライオットっていうパンクハードコア系のイベントで、「トリやるバンドいないから、お前ら東京行くから最後にやれ」ってトリを無理矢理やらされたら、お客さんがほとんど帰ってて、さみしかったというおもひでがある。
2月には東京の家に引っ越しをしたような気がする。
ほいでそのまま住んで3月くらいには今はなき新宿アシッドというところで友人のイベントがあって東京初ライブをやって毛皮のマリーズとの邂逅を果たした。
んで、4月から東京に本格的に住み始めた。ドラムが就職するからバンドやめるっていうか元々ドラムの叩けない友達に無理やりやってもらってたに近いところがあるから、そもそも長く続けるつもりはなかったので、自動的にやめた。当時のベースは大学の後輩で東京には来れないから自動的にいなくなった。だから大学で東京にいた楽器のできるキーボードの本間ドミノの友達の2名、ベースの星川ドントレットミーダウン、ドラムの千葉オライリーが加わった。こうして現在の5人のラインナップが揃った2007年4月からを正式なボヘミアンズとして定めているので2022年で15周年です。記念になんかやりましょう。
で、そっから順風満帆な東京バンドライフが始まるかといったら、そうではありませんでした。生活に追われていました。ドラム千葉オライリーは演劇にのめり込みすぎてて、この時点ではまだ留年しまくってて、まだ大学生でバンドより芝居の方が優先の人でした。
ベース星川ドントレットミーダウンはイベント会社に就職していたので休みも安定しておらずバンドに本格的に打ち込むって感じではありませんでした。
キーボード本間ドミノは東京のカレンダーかなんかのデザイン会社に就職したので土日以外の稼働は無理でした。
ビートりょうは本当は愛する彼女のいる山形を離れたくなかったのに、本間ドミノが全て世話をするという条件で半ば無理やり東京にやってきたので、マジで1年間、本間ドミノの稼いだ金でニートをしてプラプラしてました。のちにその時の金はバンドで稼いだ金で、全額本間ドミノに返済したらしいです。しかも亀有とかいう東京の遠いとこに、安いし『こち亀』好きだからとかいう安易な理由で一軒家に本間ドミノとビートりょうの二人で住み始めましたので、メンバー2人もそこにいるので自動的に集まる時は、みんなそっちへわざわざいかなくてはならなくてクソタレめんどくさかったです。僕も安いからという安易な理由だけでなぜか板橋区に住んじゃってたので、特にクソタレ遠かったです。いや、星川ドントレットミーダウンが一番死ぬほど遠いところに住んでた気がする。そのあと家を追い出されてその亀有の家の居間に住んでいる時期もありました、そういえば。
でもその時のクソタレ暇な東京の片隅の亀有のニート期にビートりょうが培った音楽知識と、それに伴い制作した楽曲の数々がファーストアルバムに多数収録されているので、結果、良かったとは思います。
ほいで僕も東京に行くために金を親に出して貰わなくてはならなかったので、とりあえずの口実として謎の映像会社に就職してしまいました。東京で就職するから引っ越し資金をくれ、というわけなのです。なんという親不孝! なので最低一年はやろうと思いましたが、専門的な仕事だったし、それこそバンド活動と並行なんて不可能だなって思ったので3ヶ月でやめてしまいました。あの会社には悪いことをしたと思います。でも2年後くらいに、その場所に行ったら完全になくなってて、ビルも蛻の殻となってて、ネットで検索しても出てこなくなっていたので、多分もう当時からヤバかったっぽかったので、関係なかったような気もします。なんか怪しい会社でした。
そんな感じで全然バンド活動をしてませんでした2007。たまーに御徒町のスタジオに集まって練習とかはしてました。今はなき新宿ジャムのスタジオでもやってました、そーえば。新宿ジャムのスタジオに入って「このバンドはボヘミアンズではない、名前は当面ボヘミアンズのままでいいけど、あとでかっこいい名前を考えよう! とにかく今は曲を作ろう! さあセッションだ!」といって好きなバンドをあげていって、ドアーズみたいな曲! とかスモール・フェイセスみたいな曲! とかいって5曲のセッション曲を作りました。そのうち4曲はどんな曲だったか忘れましたが、リバティーンズみたいな曲!つって作られたのがこのファーストアルバムの2曲目の「ダーティーリバティーベイビープリーズ」でした。
やっとファーストアルバムと絡む話がひとつ出たか。そうだ、この曲がこの2007年4月の新宿ジャム・セッションから生き残ったことから、ボヘミアンズのリバティーンズ模倣路線が本格化するんだ。それが1年半後に功を奏することになるとは、この時はまだ誰も知らない。そういう感じの経緯で現れた曲だから今もボヘミアンズのライブのレギュラーナンバーだ。ほら、どのバンドにもひとつはあるじゃん、初期からずっと生き残ってるレギュラーナンバー。それがこれなんだ。やらないとあのはじまりの頃の気持ちを忘れてしまったような気分になるというか、単純に体に馴染みまくってるから、やってて気持ちがいい。酸素を吸うが如き感覚と言い換えてもいい。「ダーティーリバティーベイビープリーズ」はとりあえずそんな感じだ。良し悪しはおいといて、ボヘミアンズって感じがする。歪な仕様なところが特に気に入ってる。
そしてバカヤロー! 今ツアーの静岡ワンマンからの帰りの車だ、バカヤロー! さっきまで書いてたやつは行きの車で書いたやつだ、バカヤロー!
こんなもん誰が読むのか知らねえけど、どうせ今回で最終回だからダラダラ書かせてもらうわ、おもひでー! おもひでのバカヤロー!
ほいで、2007年はそんな感じだったからライブの依頼があったらやるみたいな感じだったわけだけど、東京じゃ勿論完全に無名だから、当然地元山形からしかオファーが来なくて、月一くらいで山形に帰ってライブしてた気がするわ。東京行った意味ねー! 山形時代にどっかのサイトにあげてた音源を聴いて、「うちのライブハウスに出ないかい? ノルマ3万で」っていう西荻窪からの依頼も2回くらいあったはあったが、そこのブッキングの人がすぐやめてしまったので、それはすぐなくなった。だからほぼ山形でしかやってなかった気がする。東京のライブハウスに売り込みにいくということをなぜか一切しなかった、今にして思えば。ほんと謎。でもみんな仕事で忙しかったからな。社会人1年目で生活の基盤を作るのにいっぱいいっぱいだったんだ。
でも5月くらいに「夏の魔物」っていう、当時青森でやってたフェスの東北サーキットとか行って元ハイロウズの白井さんと元ブルーハーツの梶さんのユニットTHE BIG HIPの山形公演の前座に呼ばれたのだけは、唯一よかったおもひでだな。サインもらいまくったし。「夏の魔物」の主催者の青森の後輩が僕らの大学にいたかなんかで、「ボヘミアンズかっこいいですよ」って推薦してくれたんだったかな。そっから「夏の魔物」との繋がりができて、2007年の12月に青森の「夏の魔物」のプレイベントに呼ばれたのが、多分、ボヘミアンズ史上初の遠征ライブ。東京に住んでるから、山形でライブするのも遠征っちゃ遠征だったけど。ガチ遠征は青森が初。同じ東北とは思えないほど、青森は遠いし、人の種類も話す言葉も違うし、青森は今、思い出しても異質だったわ。
この2007年12月で思い出したけど、ライブハウスに着いた瞬間ビートりょうが青森最後の詩人ひろやーにボゴボコに殴られてた事件あったわね、そーえば。あれはビックリしたわ。ライブハウスついて振り返ったらビートりょうがボコボコに殴られてんだもん。「えー!?」って、画太郎の漫画みたいなリアクションとっちゃったもん。でもビートりょうが悪いんだわ。2007年の3月に「毛皮のマリーズ死ね」ってブログで書いたら、対バンできたことに味をしめたのか、その後も「くたばれボウディーズ」というブログを書いたりもしてた。それは何も起きなかったけど。で、マイスペースというサイトのボヘミアンズのアカウントで、青森最後の詩人ひろやーが当時所属していたバンドのアカウントのコメント欄に悪口を書いて、謎の煽りをし出して、向こうからまず僕のケータイに電話がかかってきたんだ。「あれ、どういうつもりっすか?」って。そのバンドのボーカルのミックって女がヤンキーな感じで言ってきて、最初は意味不明だったんだけど、よくよく話を聞くと「ああ、それはうちのギターの頭のおかしい人が書いたんだと思います。僕は関係ないです。電話番号を教えるので、そっちに文句を言ってください。ガチャ」ってなって、普通に青森の日までそんなことは一切忘れてバイトして暮らしてたんだけど、どうもそのあと、電話越しでビートりょうがマジ喧嘩したらしく、完全決裂して、結果、当日ボゴボコに殴られたという流れらしいです。
いや、マジで当時のビートりょうは病んでたからな。平田ぱんだと本間ドミノにそそのかされて東京に来てはみたけれど、いいことなんかなんにもないじゃないか、おらあ山形さ帰りてえだあ! 可愛いあの子と静かに暮らしてえだあ!ってなってて、なんかすごく病んでた。今にして思うとだけど。大学時代は親の金でノホホンとしてればよかったから、あんまわかんなかったけど、東京にきてからビートりょうがけっこーメンタル弱い奴ってことわかったんだわ、そーえば。最近はもう流石に年齢的にも大人だからそうでもなくなったけんどもよ。
んで、まあそのあとこれといって特に仲直りはしてないけど、そのバンドとはよく東京とかでも対バンするようになって、結果、仲良くなったっちゃなったかな。亀有のビートりょう本間ドミノ家に泊まってったこともあったはずだよ。つーかそいつらの方がボヘミアンズよりも先に2009年にファーストアルバム出したんだよ。しかも同じレーベルから。「あれ? 僕らのは?」ってなったよね、当時。「先に会ったのはボヘミアンズの方だよ」ってなったよね。そんなMr.Freddie & The Mercury Devilのファーストアルバム、結構いいです。普通にオススメ。
そんな初遠征ライブとなった2007年12月の「夏の魔物」プレイベントですが、せっかくの初遠征ライブだからっつって。初めてのレコーディングをするわけなんざんす。それまでの録音物は大学の音響室というところを借りまくって各自曲を作ってきてって感じで、遊び録音をしていたものなのです、当然、別録りで。だからお金を払ってバンドで録音ってのはこの時が初だったね。現在の5人で録った最初の音源だったね。綾瀬の安いスタジオで3曲録った。1曲目が「ダーティーリバティーベイビープリーズ」で2曲目が「シーイズノットダンシンインザストリート」とかいう僕が作ったカスみたいな曲で、3曲目が「おぉ!スザンナ」だった。CDRに焼いて1枚いくらで売ったんだったかな? 500円くらい? トータル100枚くらいは売れた気がする。何枚売れたとか知らん。いまだに知らないCD何枚売れたのかとか。しょっぼ!ってガッカリしたくないから進んで聴かないようにはしてる。
んで、そうなんすよ、お気づきですか? ボヘミアンズのファーストアルバムの記念すべき1曲目の、かの「おぉ!スザンナ」が、なんとこの時、シングルの3曲目なんすよ。信じらんない話だけど、マジだった。
とまで書いて疲れたから続く。
うおー! そして2日経ったぞー! 書くことありすぎて書くのクソめんどくさいぞー! このままだと3週間かかるから、3時間にどうにか短縮するためにすごい勢いで行くわ
「おぉ!スザンナ」が最初のシングルでは3曲目扱いだった問題ー!
その答えはー!
僕が今の32倍ロックンロールっつーかパンク嗜好だったからー! この部分にこだわるのは、このバンドで僕だけだー! 今も昔もそうだー! ロックンロールの精神性という価値観にこだわるのは僕だけだー! ビートりょうもロックンロールだけど、僕よりもっと音楽的だー! 平田ぱんだに出会うまでジム・モリソンやイギー・ポップをカッコいいとする価値観を知らなかった、と15年前に言ってたー! つまりそういうことだー! このバンドでパンクなのは平田ぱんだだけだー!
パンクっつっても型にはまったコスプレ・パンクみたいなやつは嫌だー! いつまで経っても変わらない昔ながらの古めかしいパンク・スピリッツなんか嫌だー! もっと表現としてのパンクの話だー! だってイギー・ポップだってセックス・ピストルズだって初めからパンクだって意識してやってたわけじゃねー! 好きにやってたら、それがパンクって、のちに呼ばれることになっただけだー! そういうのが好きなんだー! そういう意味のパンクが好きなんだー! リバティーンズ、サイコー!
ボヘミアンズは平田ぱんだがボーカルじゃなかったら、今より売れてるかもしれない! いや間違いない! 曲とルックスがいいポップ・バンドとして、歌のお上手な性格のいい常識人のボーカルを入れたら、今より絶対売れる! だがそのボヘミアンズは絶対つまんないと言い切れる! 少なくとも絶対かっこよくない! 平田ぱんだのいないボヘミアンズなんか意味ない! そういう自負はある! おごりでもなんでもなく!
そんな感じが今の80倍強かったので、「おぉ!スザンナ」はロックのロの字もないポップ曲として優先順位を下げていた傾向がある。そもそも最初にビートりょうが宅録したデモが完全に大滝詠一オマージュの産物だったのがいけない。ビートりょうはそのまんまやるのが好き畑の住人だからだ。もう歌の節回しまでモロにそのまんまやりたいマンなのだ。僕は大滝詠一の音楽自体は大好きだが、パンクのパの字もないので、当時はやりたい音楽ではなかった。それにそのまんまコピーみたいにしてやるのはあんまり好きじゃないし、意味ないと思っていたからだ。ビートに対してどうのるかが個性の別れ目なのはラッパーだろうがシンガーだろうが変わらない。個性のない歌い手なんざ、クソだ。歌の節回し、ラップでいうとこのフロウを真似ることだけは一番やってはいけないことだ。ラッパーだろうがシンガーだろうが歌い手ってのは常にダンサーでなければならないからだ。心の踊りを歌にのせるのだ。結果、ガタンゴトンと猛突進する機関車でも構わない、悪くない。だから「おぉ!スザンナ」は原曲より大分、真っ平に歌っている。ジョニー・ロットンが如く、わざと乱暴にやっている。日本の歌謡テイストよりパンクロックの方がかっこいいからだ。今でもそれは間違ってなかったと思っている。
そしてちょうどいいことにビートりょうも「おぉ!スザンナ」が2007年の東京ニートライフの時分の自作曲ナンバーワンを自負しながらも、「こんなポップな曲じゃ青森の奴らに舐められる、もっとギンギンにしたい」というので僕の好みが優先されまくったのかどうか覚えていないが、結果、僕の青春愛バンドであるマンドゥ・ディアオの「ザ・バンド」というナンバーのパクリアレンジをすることに落ち着いた。あとからイントロを同じく青春愛バンドであるリバティーンズの「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン」のパクリにすることを付け加えた。録音の時に突然。
そういう感じだったからお「おぉ!スザンナ」の扱いは最初低かったのだが、この最初のレコーディングのバージョンがヘタクソだし、音質も全然よくないんだけど、ファースト・レコーディングならではの、謎のマジックが働いており、めっちゃくちゃ出来がよかったのだ。出来がよかったっていうか、ロックンロール的な出来がよかった。ロックンロール・マジックが起きていた。それは後に出るファーストアルバムでは得られなかったものだ。今でもあの時に録った「おぉ!スザンナ」の方がいいと思ってる。もう10年聴いてないから、今聴いたら全然クソじゃんって言うと思うんだけど、ファーストアルバムを聴いた時点じゃ本気でそう思ってた。だからこのファーストアルバムはあんまし好きじゃなかったってのがある。ボヘミアンズが完全に失ってしまった若い勢いが収められていたような気がする記憶。
そんなだから、のちのちこのシングルでも1曲目になった。CDRで売ってたから曲順なんてちょちょいで変えれるからな。「スザンナ」と「ダーティー」の両A面シングルということにしよう、と僕の中で勝手になってた。つまりボヘミアンズのファーストアルバムはファーストシングルの2曲が頭を飾っているという健全な仕様なのだということだ。正しい、正しいじゃないか、曲順!
初遠征を終えて! 青森とのつながりも少しできて! それからしばらくしたら2008年3月くらいだかに「夏の魔物」プレイベントで毛皮のマリーズのセカンドアルバム発売記念東北サーキットツアー! というのが発表された! 前座でついてまわるのは「夏の魔物」の主催者のバンドのウェイバーとさっき話したザ・フレディーマーキュリー、のちのフレディー・アンド・ザ・マーキュリーデビル! ふ、ふ、ふざけなー! ボ、ボヘミアンズも混ぜやー! となって速攻、主催者の成田大致に電話。いや、mixiで、ボヘミアンズも混ぜや、コラー!って書いたら、向こうから電話がかかってきたんだったかな? そうだ、新宿の駅だったのを覚えてる。そしてあっさり出演が決まった! バンド史上初のツアーだ! 山形、仙台、八戸、青森という行程だった! 岩手もあったけど、誰かの仕事の都合でダメだった記憶! なんか今にして思えば、このためにシングル作った気がしてきた。2008年の2月くらいに録った気がするもん。いや、そうだ、間違いない。そしてこのツアーがすげー楽しかったんだ。同じバンドで何箇所かまわると100%仲良くなるというのを、この時、学んだ。だから3バンドくらいで何箇所かまわるってのをずーっとしたいと思ってんだけど、みんなそこそこ売れてて忙しいから全然実現しない。あの頃はよかった。みんな暇だからすぐ対バンが決まった。
あの頃あれだけ仲良かった青森の「夏の魔物」周辺とも、もう今じゃ全くなんもないってか、音楽やってんのかどうかすら知らない。呂布カルマのTwitterを見てたら、八戸のライブの対バンのラインナップに青森最後の詩人ひろやーがいるのをみたから、まだ音楽やっているってことは、こないだ確認したな。成田大致はこないだブルーハーブのワンマンに行ったら、会場で「夏の魔物」のビラ配りをしてたから、懐かしくてついつい話しかけてしまったけど、相変わらず全身から流れ出るクズのオーラが凄くて、その変わらなさに逆に安心した。近年だとそんなくらいかなあ、青森を意識したのは。ちょい前に元ウェイバーのジョニーが結婚したって、なぜかhotspringの狩野君が教えてくれたこともあったな、そーえば。あとはマジで知らない。ミックとか何してんだろ。とか、そんなボヘミアンズ・ファンの、もう誰も知らない話はこれくらいにして先を急ごうか。
ほいでここで大問題が起きるんだな。その東北ツアー中にドラマー千葉オライリーが「芝居に集中したいので、こんなうだつのあがらないやる気もあるんだかないんだかわからないクソバンドからはこのツアーが終わったら脱退したいです」と言い出して、一切止めなかったけど、すげー困った事件です。だってドラムがいないと! ライブができない! どうしよう!ってことでベース星川ドントレットミーダウンの友人の住所不定無職っていうバンドやってたジンタ君をジンタアンドザミラクルズという名前を与えて加入してもらいました。この体制は2010年末まで続きます。だからファーストアルバムのドラムもジンタアンドザミラクルズが叩いています。
そーえば、ほっしーの友達がPAやってるからっつって横浜リザードに2回くらい出たわ、2007年に。その時、ジンタアンドザミラクルズがボヘミアンズを見てて、好きだってなってくれたようでドラマーとしての加入も二つ返事だった気がする。
ほいで千葉オライリーがやめたことによって、ようやくボヘミアンズはダラダラしてる場合じゃない、このままじゃなんのために東京きたのかわけわかめだ!ってなって、遂に東京で本格始動をはじめることになるんだな、約1年かかった。遅いよ。マジで全員スロースターターだよ、ボヘミアンズの連中。でもやるってなったら早いぜ? 千葉オライリーがこんなバンドやってられっか!って脱退しなかったら、マジでもう2年くらいダラダラしてたような気がする。「やめてった千葉オライリーを見返してやる!」みたいな気持ちもあったからな、割とマジで。
ほいでジンタアンドザミラクルズ加入に伴い、東京ボヘミアンズ本格始動を祝して壮行会じゃないけど、バンドの意思を固めるために亀有だか綾瀬だかでバンド飲みをしたのは覚えてるな。ほんとにそういう名目の飲みだったかは忘れたけど、今でもあの時した約束は覚えてる。本間ドミノあたりは「したっけ、そんな約束?」って言いそうだけど、ビートりょうはきっと覚えてるはず。その約束はこうだ。「あと2年で何者にもならなかったら、バンドをやめて山形に帰る」だ。とても曖昧な基準だが、それしか浮かばなかった。だって別にメジャーデビューして人気者になって、お金をガッポガッポ稼ぎたいとか、全然そんなんじゃなかったし、なれるとも思ってなかったから、そういう曖昧な約束ごとにならざるを得なかったんだな。この約束がなかったら、多分ファーストアルバムを出してない。少なくとも2010年には出してない。ジャパニーズ・プチ・ロックンロール・リバイバルが完全に過ぎ去ってから出してたか、永久に出なかったかどっちかだと思う。そしてメジャーデビューとか絶対なかっただろうし、デリシャス・レーベル入りも絶対なかったと思う。マジであの日の綾瀬の約束のおかげ。ギリギリ間に合った、ファーストアルバム発売の機に。だってあれだもん、この約束が2008年の4月だか5月だかでしょ? だから2009年の暮れくらいにビートりょうが僕に言うのよ、「あの約束からもうすぐ2年経つわけだが、どうする?」って。いやー、「何者でもなかったら」っていう基準が曖昧過ぎてわかんねえって感じだったよね、ぶっちゃけ。その頃はそこそこだけどファンもつき始めてて、人気が全くない箸にも棒にもひっかからないみたいなポジションでは間違いなくなかったわけなんだけど、でもやっぱなーんかCD出してるか出してないかって明らかに線引きがあるのよ、インディー・アマチュア界隈でも。CDがお店に並んでいるか並んでいないかで、格が一個違うみたいな空気感が確実にあった。だからファーストアルバムを出すことにしたんだよ。お店にCDが並んでたら、何者かではあるだろうっつって。
ほいでジンタアンドザミラクルズが加入して最初のライブは、相変わらずの山形での「ランニンライオット」に呼ばれてーのだったな。でもゲストが毛皮のマリーズだったからよかったな。そのライブから山形ボヘミアンズから東京ボヘミアンズに変わったってことにしたかったから、「山形時代のオリジナル・ナンバーはロックンロール以外、全部捨てる」とかわけのわからんことしてたから、半分以上カバーソングだったな。志磨さんにも「君たちは絶対オリジナル中心でやった方がいいよ」って、その時に言われたおもひで。
ジンタアンドザミラクルズはキャラが定まってなくて、住所不定無職の時の衣装でやってたっけ。でもジンタアンドザミラクルズは今にして思うと滅茶苦茶やる気があった。だってボヘミアンズ加入と同時に、権力者の爺ちゃんのコネで入社したという初任給三十万の破格の待遇の仕事をやめてきたからね。ジンタアンドザミラクルズはロックンロールだったね。本間ドミノと星川ドントレットミーダウンは中々やめなかったけど、仕事。でもよ、ロックバンドで本気で東京でやってくってなったら、定職になんかついちゃらんねえのよ。ソロならできるかもしんないけど、バンドは無理。すげー器用な人達ならできるかもしんないけど、少なくともボヘミアンズには無理だったね。結局2009年までやってたんじゃないっけか? ほっしーがやめるやめるって言いながら、結局一番やめるのが遅かったのは覚えてる。仕事の出張でほっしーがライブに来ない事件とかあったもん。しかも当日に電話で言ってくるという。「ごめん、今、名古屋……言い出せなくて……」とかっつって。今じゃそんなことも懐かCおもひでです。
ほいで、ガチ東京ファーストライブはレッドクロスだったかなあ? 7月くらいに。ジンタアンドザミラクルズが住所不定無職の売り込みにいったついでに、ボヘミアンズの音源も渡したら「出て」って言われたみたいな流れだったような。その時、終わってからブッキングの菊池さんが「君たち信じらんないくらい演奏ヘタクソだけど、滅茶苦茶かっこいいね。君達みたいなバンドの登場を待っているキッズが日本全国各地にいっぱいいると思うよ」って素晴らしいことを言ってくれたから、レッドクロスだけはどんなに売れても、一生出続けることにした。あれから11年半経つけどレッドクロスには1年に最低1回は出演している。あのボヘミアンズがレッドクロスに出るだってー! プレミアチケット確定! みたいなことにはいつまで経ってもならないのが少しばかり悲しいが、まあ毎回、大体ソールドアウトにはなってるから、十分恩返しはできてるだろ、多分。
あとは新宿ジャムとUFOクラブにも出せよ、この野郎!って乗り込んだっけかな? とりあえずロックンロールで名前が通ってる山形の田舎者でも知ってる場所の門を叩いたんだ。チケットノルマを払えば、すんなり出れるし、全然わけわかんないブッキングとかもしてこないから、もっと早く売り込みすればよかったって思ったおもひで。
ほいでその前にあれだ、渋谷屋根裏のオーディションライブとかいうのに出たわ、6月くらいに。なんか昼の部で屋根裏に出るに値するか試すライブみたいなのがあったの。今時ねえよな、そんなん。4組中2組がなぜか外国人バンドだったのは謎で笑った。そして終わった後に、「君たちにピッタリの対バン相手がいる!」って言われて上がった名前が、青森のフレディだったのも笑った。そんなおもひで。
で、その渋谷屋根裏で僕らのファーストアルバムを発売する男と会ったのだった。それはSさんという男で、マイスペースにアップしてた「スザンナ」と「ダーティー」を聴いて、「最高だ、是非ライブが見たいから近々の予定を教えろ!」っていうから、8月13日に渋谷屋根裏でありますっつったら3人くらい連れてやってきて、「今日から勝手にボヘミアンズのことを応援しますから、ほっといてください」っていうから、ほっといたらマジで勝手にフライヤーを作ってばらまき、mixiコミュニティなどをつくり、日々ネットで宣伝に勤しみ、ガンガン出演するイベントを決めてきて、時に自分で用意したりとかしてくれはじめて、一気にボヘミアンズの東京での活動が活性化するのであった。「あんた、一体なんなんですか?」って聞いても「ただの会社員」としか答えないから、それ以上、聞かなかったけど、その会社がツアーの制作会社でLUNA SEAのJさんとかハイエイタスとかやってて、音楽業界!って感じで、最近レーベルも始めましたとかっつってて、その時点ではPsysalia Psysalis Psycheとuffalo’3とMOJAというバンドのCDをリリースしていたから、ちょっと毛色が違うけど、「俺らのも出してくれんのかな」って最初、思ったけど一向にその気配がないどころか、ボヘミアンズを通して知り合ったフレディ&ザ・マーキュリー・デビルのCDを先に発売する始末で、「この人、なんでボヘミアンズの世話してんだろう?」って当時は思ってたけど、本当はゆくゆくボヘミアンズのCDを出したい気ではいたんだけど、演奏もヘタクソだし、持ち曲も少ないしで、単純にまだ早いって思ってただけだったって、後にhotspringの狩野君が言ってたけど、そんなもん言わんとわからんやんね? いやコミュニケーションって大事だよマジで。
まあそんな感じでSさんのおかげでフィールドが広がった。まず下北沢に進出したね。レッドクロスに次ぐ当時のボヘミアンズのホームグラウンドであるデイジーバーに頻繁に出たね。あとSさんが安くイベント組めるからってレッドシューズでイベントやりまくったりもしてて、南青山の高いロックバーでライブができるなんてなんて、東京感がすごいんだ!ってなったりしてた。
で、こんな感じで時系列守って書いてたら、締め切りに間に合わなそうだし、なによりもクソめんどくさいから、こっからもっともっとガンガンはしょって書いてこうと思うんす。
そっから! レッドネイキッドがマイスペースで聴いて、「イベント出てください」ってきた! 当時は毛皮のマリーズやボウディーズといったオールド・ロック・リバイバルな人達とは別ラインで、ストロークス以降のクールでシャレオツな洋楽ロックの影響をムンムンに受けたロックンロールも日本のアンダーグラウンド・レベルでは流行ってた! ボヘミアンズはリバティーンズのパクリサウンドをやっていたから、そういう側からもたまーに声がかかるんだった。でもボヘミアンズって、所詮山形から出てきた田舎もん丸出しの垢抜けない連中だったから、なーんかそういうとことはうまく絡めなかったね。でもレッドネイキッドはめっちゃ年下だったから、なんか大丈夫で、よくイベントに呼んでくれたよ。
あとベイリーズ。山口県出身のスリーピース・ロックバンド。これもストロークス以降系のロックンロールを奏でる系のバンドだったな。大阪を拠点に活動してて、初めて大阪に呼んでくれたのもベイリーズ。同じレーベルから同じ日にCDを出して一緒にツアーもまわった。山口県の米軍基地のとこのライブハウスでやったのが一番のおもひで。米兵がみんな酔っ払って、頭がおかしくなってて、こっちが何やっても勝手に暴れてくれるから面白かった。床には酒の割れた瓶が散乱してて、危なくて面白かった。そんなおもひで。
あとはー、ムーンライツ! ビートルズとブルーハーツのいいとこどりしたみたいな新宿ジャム系のビートバンドで、ある日、突然ボヘミアンズのライブにきて「俺たちと組まねえか? 俺たちがボウディーズをやっつけるから、お前らは毛皮のマリーズをやっつけてくれ」って言ったかどうかは記憶が定かではないが、まあなんか仲良くしようって言ってきてくれて、一緒にツアーも回ったりもして楽しかったよ。当時から今でもつながりが残ってるのは元ムーンライツで今フォーエバーズのガクちゃんだけだね。あとの人達はみんなバンドやめちゃってるもん。音楽は続けてる人もいるけど、精力的にやってるって言えるのはもうガクちゃんだけだね。さびしー。
あとはー、UFOクラブ系のアングラGSガレージロックバンドのシャロウズとかもイベントに誘ってくれたりしてくれたなー。あと博多出身のデイズ。どっちももう跡形もない。今、何してんのかもしらん。シャロウズのモンマくんとキョウイチくんには、こないだ高円寺のワンマン終わりで歩いてたら偶然会ったけど。8年ぶりくらいに。
そんな感じかなー。ファーストアルバム発売前にボヘミアンズによくしてくれたバンド連中は。あと、さっきも言ったけど青森の「魔物」周辺ね。なんにせよガクちゃん以外、もう対バンとかしなくなってしまっているというか、ほとんどの人がもうバンドやってない。当時は全く仲良くなかったけど2009年に一度だけ対バンしたマヤーンズの逸見くんとかはあの頃の生き残りと言えなくもないが、仲良くなったのは最近だから、あんまそういう感じはしない。上りも下りもせずに一定の人気を保ったまま、やめずにバンドを続けられているボヘミアンズはこうして考えると運がいいな。でもそのせいでやめ時を完全に逃したとも言えるがな。儲かってたら「幸せだなー」で済む話なんだけど、別に儲かってはないからな、全然。ボヘミアンズは。だが勝手にこっちの都合だけでやめれるほど人気がないってことはない。ほんと凄く微妙なラインだ、ボヘミアンズは。そろそろはっきりしてほしい。モヤモヤする。売れるなら売れる! 売れないなら売れない! まあ、はっきりしないからこうして続いてるという説もあるにはあるがね。
つーかなげえ。いつまで続くんだこれは。てんで終わりが見えねえ。もっとスピードを上げなければ!
うおおおおおおおおお! 2009年にセカンドシングル「お気にのチェルシー」録ったー!
同じ綾瀬のスタジオでー! 安かったからー! でも今度はレコーディング・マジック起きなかったー! 微妙な出来栄えになったー! 最初のdemoのまんま美メロ系で大人しくいっときゃよかったのに、クリブス的パンクはっちゃけナンバーにしようとしたら、なんかなんなくて野暮ったくなったー!
でもファーストアルバムでは3曲目に収録されてるけど、それは2008年に出たストロークスのジュリアン・カサブランカスのファースト・ソロアルバムの影響を受けてキーボードとか重ねまくりのボリューム満点サウンドにしたら、なんか可愛らしくていい感じになったような気がするー!
ちなみにまだ僕は現時点でボヘミアンズのファーストアルバムを聴き返してないので、「確か、そうだったはず」くらいの感想しか書けません。いつもは必ずどんなに聴き込んだやつでも一回は聴き返してから、ここで書くんですけど、ボヘミアンズのファーストアルバムは恥ずかしいから聴きたくないので、もう少なくとも5年は聴いてないです。
そしてそれの2曲目「レディのロンドは世界」という後にセカンドアルバムに「王国の謎」と名を変えて、収録されるやつだったのですが、それはファーストアルバムに入ってないので書きません。
3曲目はファーストアルバムの9曲目に収録されている「麗しのグッドルッキングガイ」でした。これは山形時代に本間ドミノが作った「バイバイモスキート」というモータウン系のナンバーをそのままだと野暮ったいからっつって、お得意のリバティーンズ汁とストロークス汁をかけまくって調理し、歌詞も洋楽っぽくして作り替えたものです。元の可愛らしい楽曲に比べたら、これはよくなった方だと思いますけど、歌詞が意味わかんなすぎて、あんま好きじゃないっすね。なんか無駄に長いし。ファーストアルバムだとなんかアウトロで似非英語みたいなをずっと僕が言い続けてるのも、聴いててしんどいから、リマスターする日がきたら絶対あの部分を消したいっす。
そんな感じで、ここまででファーストアルバムに収録される曲が4曲登場した。でもファーストアルバムを作るってなった時は候補曲がこれともう1曲と山形時代からの定番ナンバー「ロックンロール」の全6曲しかなかったんすよ。だからもう途中とか無理しないで、ミニアルバムでいいか、みたいな話も少し飛び出しそうになったくらいでした。とにかく曲を作る暇なんかなかったですからね、バイトが忙しくて。バイトしながらバンド活動はマジでハンデでかいです。だからずーっとおんなじ曲やってたもん、当時のライブ。新曲が増えないから。30分以上のライブなんてなかったしね、当時は。んで、久々の自信作ができたっつって2009年の秋ごろ登場したのが「明るい村」。これはよかった。もう最初っからよかった。これだ!って感じだった。んで、これを今まで通りシングルとして売ろうと思ったけど、先ほども書きましたバンドやめるやめないの期日が差し迫っておりましたがゆえ、これはファーストアルバムに入れよう!ってなったのでごわす。
もう頼れる人はSさんしかいなかったから、「俺たちのファーストアルバムを出せよ、このやろう!」って言ったら、Sさんが「いいよ。もう年も年だしね、君らも」って出すことになった。ほんと20代後半が迫ってたから、結構、焦ってたよね。だって2009年って黒猫チェルシーとかOKAMOTO’Sとかの平成生まれのロックンロール・バンドがどんどんデビューしててさ、もう俺らみたいな昭和の田舎野郎には、日の目は当たらないんだってしょげてたからね。もう「今出さないでいつ出すか!」って、曲もねえのにとりあえず出すことだけを決めた。曲足りないっつっても山形時代の曲は封印とかいう、わけのわからん縛りをなくせば、全然、曲あったんだけどね。だってその後のアルバムに収録されることになる「ファファファ」も「レンズ」も「ガール女」も「ハイパー」も「太陽観覧車」も「もしも」も「ロックンロールショー」も「タイムマシーン秘話」も、まだまだあれやこれやも、全然、あったからね。「ガール女」と「レンズ」と「タイムマシーン秘話」の山形音源をHMVとタワレコとディスクユニオンの店舗ごとの特典にCDRで振り分けたくらいだったからね。もったいねー。でもCDを1枚でも多く入荷してもらうためには各店舗ごとに、違う特典別々に付けなきゃいかんのよね。あれ別に複数買いさせるために、特典店ごとに変えてるんじゃないからね? たまに勘違いしてる人がいるけど。いや何枚も買ってもらうに越したことはないんだけんどもよ。
ほいで、曲が足りないどうしようってなって、ビートりょうが「爺さんと婆さんが死に別れるまでを描いたコンセプトアルバムにする」とか言って作ってきたのが7曲目の「私の家」。ザ・ビューのセカンドアルバムみたいな始まりにしたいとか言って、こういうオールド・ジャジーなナンバーを作ってきて、これを1曲目にするとか言ってたけど、当然のようにコンセプトアルバム・トークはすぐになかったことになり、これの名残を残しているのが山形時代のナンバーである「ゴーゴーゴーズオン」に得意のリバティーンズ汁をかけまくって改良した「She Said Yeah!Yeah!Yeah!」の最初の一文である「シワなんか気にする君じゃなかったろ」なのであるわけなのであーる。あれは爺さんが婆さんにいうセリフなんだそうだが、そんなコンセプトは2秒後にはなくなっていたので、そこの一文以外、録音の時テキトーに書いて歌っといた。
つーか、信じらんない話なんだけど、当時のボヘミアンズってレコーディングの時点で歌詞どころか歌メロすら存在しないやつとかゴロゴロあんのよ。レコーディングで歌う時、その場で作るみたいな。ありえねえよな、今、考えると。ライブとかでも歌が全然できてないやつを、テキトー英語で誤魔化してやってたりしてたもの。考えられねえ。ボヘミアンズって、今はだいぶマシになったけど、基本的にいい加減なアマチュア集団なんだよ。平田ぱんだを筆頭に。今でもその頃の名残があるから、ついにこの前の前のレコーディングの時、さわおさんに怒られたもん。「いい加減にしろ、このヤロー!」って。レコーディング中に曲のアレンジとかコロコロ変えるから。「プリプロの意味ねえだろ、このヤロー」って。「今までなんとなく許してきたけど、俺はもうお前らを売るために鬼教官になるから、これからはそんなアマチュアは許さんぞ、このヤロー!」ってね。でもほんとずっとそうしてきたからなあ。よく考えてみると、信じらんねえ。レコーディングする段階じゃないってやつだもんな。今回のニューアルバム『the popman’s review』がほんとの意味で、初めてちゃんと全部決めて練習して録音したアルバムな気がする。おかげで出来がすこぶる良い。やっぱアマチュアはいかんよ、アマチュアは。金とるんだからさ。でも次はもっとガッツリ決めて出したいな。年一でアルバム出すことにこだわらなくてもいいのかもしれん、そろそろ。でもツアーしたいからなあ。対バンツアーならアルバムなしでもできるか。まあ来年の話は来年ということで。
ファーストアルバムを作るために、半ば無理くり追加された中でも、「Beat! Beat! Beat!」と「軍団」の定まってなさはちょっとひどいと思うね。マジであれ多分レコーディングの時になって決めてるで、全部。歌入れの時に歌のメロディも歌詞も作ってた記憶があるもん。「軍団」はハイブスと初期ホラーズの融合を目指したナンバーで、サウンドはかっこいいんだけど、如何せん歌部分ができてない感がきつい。その場で作った感丸出しだ。もったいねえなあ。絶対、この曲、もっとよくなったべや。「軍団」が一番最後に作った曲だったはず。そして最も雑な扱いをされたナンバーでもある。ほんともったいないと思う。でも全ては2010年にファーストアルバムを出すという目的のためだったから、仕方がなかった。時間がなかったのだ。
「Beat! Beat! Beat!」は「軍団」に比べりゃ、曲はまとまってた。でも歌入れのその場で、歌は作ってた記憶はある。曲自体は完成度高いけどね。当時ビートりょうがハマってたラズベリーズの「明日を生きよう」を基調とした、なかなか完成度の高いいい曲なんだけど、それだけにもったいない、このファーストアルバムのバージョンは。もう「これがそれだ~」の歌い出しのとこから腰砕けだもんね。定まってねー!!! みたいな。でもこれの真ん中のとこの「君がうつ向いたままでは太陽も顔を出せないよ」のところだけはガッツリ最初からあった。いや、今でこそなんとも思わないけど、当時の僕はまだ20代で今の38倍は斜に構えてたからさ。もう「なにこれ?」って感じになったわよ。「嘘でしょ?」って。でもビートりょうは「なにが?」って感じだったから「この部分はご自分でお歌いください、ビート・タウンゼントのように」ってなったはず。これ以降、歌詞の太陽をわざと使って、そこをチョメチョメ表記にするというのが流行りました、僕の中で。一時的に。あれからもうすぐ10年。皆さんから頂いた愛のおかげで、こんな僕もだいぶ丸くなりました。まさか僕がこんなステージ上でニコニコしてる人になるなんて、当時は思いもしませんでしたよ。人は変われる!
んで、ラストの「ロックンロール」は唯一の山形時代からあるナンバーですな。
これで全部出たかな? あとは録るだけ! 録ってくれる人を探さなきゃ! 原盤権をレーベルと半分半分にするために、バンドで半分金を出すってことになったから、滅茶苦茶安く仕上げなければならなかったのだ。そこでムーンライツから紹介されたのが篠原太郎さんだ。篠原太郎さんは真島昌利さんとかつてモッズバンド「ブレイカーズ」を組んでいたロックンローラーだ。宅録マニアでもあり、色んな宅録機材を持っていて、ミックスもしてくれるという。スタジオ代が浮いて最高だ!って思ったけど、でもやっぱ宅録は宅録なんだよな。ロックンロールの空気の音がしないからな。ロックンロールは空気なんだ。だから「あー」ってなった。「これがボヘミアンズのファーストアルバムかー」ってなった。ボヘミアンズのファーストアルバムはよーするに宅録アルバムなのだ。ロックンロールバンドにあるまじき行為だ。ほとんど江古田にあった本間ドミノとビートりょうが共同生活をする家で、ラインで録られた。だから楽器の音を重ねまくりだ。しかも音色もブライアン・メイの音とか色々機械に入ってて、この作業はすごく楽しかったって、ビートりょうは言っていた気がする。無限にやってられそうで怖いとも言っていた気がする。
リズム録りだけ三鷹の公民館を借りてやったね。「私の家」だけ一発録りにしようとか言って、それだけそこでイッセーのーで録ったけど、下手くそすぎるから普通にあれも宅録にすれば良かったのに、と思う。というか「私の家」ほど再録したいボヘミアンズ・ナンバーもない。いつかやってやる!
ちなみ歌は江古田のいつも練習してたスタジオで録った。「軍団」の足音もそこだったはず。PVも江古田で録った。ムーンライツがPV撮ったところを紹介してもらった。あとから気づいたけど、毛皮のマリーズの「LOVE DOGS」のPVもあそこだ。たまたまだが。
そんな感じで、5月12日に出た。ファーストアルバムが。状況はやっぱちょっと変わった。やはりCDが出てる出てないはデカかった。お客が徐々に増えていった。ファンという人たちが現れ出した。それまでは客と演者の距離が近いっつーか、立ち位置が一緒っつーか、普通に話とかする感じだったけど、なんかそういう感じじゃなくなってった。
あとファーストアルバムを出すのが遅かった+ラルク・アン・シエルに憧れて、年齢を非公開にしていたために、平成生まれのロックバンドあたりと同い年という扱いを受けた、各地で。マジでドルーグと同い年くらいだと思われてたもん、当時。黒猫チェルシーのだいち君なんて、ボヘミアンズは年下だと思ってたらしいし。嘘だろって。バリバリの昭和生まれだっつーの。そういうのは煩わしかったってか、面倒かったかな。でもこのアルバムを出したらトントン拍子で色々うまく行き出したから、ほんとあのタイミングで出せて本当に良かったと思ってる。あくまでも「店に並べることが目的」という不純な動機のファーストアルバムだったけど、結果オーライでしたね。
それで、あとは、何が知りたい? もう十分話ただろう。本当はもっと長々と歴史を綴る気でいたんだが、如何せん終わりが見えなくなりそうだったから、やめた。が、これくらいでも長いくらいだろ。
ああ、沢山書いた。このロックイズ連載「平田ぱんだのロックンロールの話」
月一書くのが大変だったよ。面白く書かなきゃいけないからね。月の半分くらいこれのこと考えてることとかもあったもん。その甲斐あって面白かったっしょ? 大体の記事。いや面白かったと思うんだよ。めんどくさかったけどいい場所、与えてもらいました。オールサンキューロックです。
これで一旦終わるけど、またどっかで再開するかもしんねっす。そしたらまた読んでちょんまげ。
つーことで唐突にじゃあな。
さようなら、僕の友達よ。
また逢う日まで。
愛してマース!
THE BOHEMIANS『ダーティーリバティーベイビープリーズ (Growing up version)』
平田ぱんだ『ロックンロールの話』単行本
2019年10月1日(火)発売
著者:平田ぱんだ
仕様:A5変形 全232ページ(特製ケース/特製しおり付き)
価格:2,400円+税
発行:株式会社CHINTAI
編集:Rock is/DONUT
ブックデザイン:山﨑将弘